同志社女子大学 メディア創造学科
進級制作展’23 mélimélo-メリメロ-


『ゴミ』

ミクストメディア (ガチャガチャ等)

服部みちる

梅田ゼミ

ゴミという作品では、150cm×150cmのエリア内にコインとガチャガチャを配置しました。
150cm×150cmのエリアを表すために、地面には紐で胎児を表現しています。
この作品は、親ガチャや私たちの今日の流行に対する考えを表した作品です。
そのため、誕生を想起するもので構成されています。
ガチャガチャのための台座は、乳児の性別を表すピンクと青で色付け、羽の生えた動物で描くことで幼少期の可愛らしさを表現しています。
また、この作品は観客がコインを集め、ガチャガチャを回すことを想定しています。
ガチャガチャの中身はカッター・マッチ・メジコン(風薬)・コンドームの4種類です。
そして4種類に合わせたカードを同封しています。
カッターには、YOU CAN HURT ANYTHING というカードと共に自傷行為を表現しました。 マッチのカードには、YOU CAN BURN ANYTHING と書かれカードを入れ他者を傷つける事件など表しましました。 今日の子ども達がODを知識なく、安易にすることから、メジコンには、YOU CAN TRIP EVERYWHERE と書かれています。 また、反出生主義を実行させるようにコンドームには、YOU CAN REJECT ANYTHINGと書かれたカードが入っています。
タイトルを「ゴミ」とすることで警告を発しています。


『Silent Mourning(沈黙の弔い)』

立体展示

小林満里奈

梅田ゼミ

皆さんは自身のSNSの使い方について考えたことがあるだろうか。昨今、SNSが普及してから匿名性による事件が後を絶たなくなってきている。「匿名性」は、自身のアイデンティティを隠して言動ができるため、いじめやハラスメント、デマや誤情報の拡散、プライバシーの侵害、サイバー犯罪などが増える傾向にある。煽り運転なども良い例であると思う。今回の作品は、その「匿名性」のなかでも「いじめやハラスメント」について焦点を当てたものである。
先程あげた例の数々のように、「匿名性」とは、悪意を持った個人や団体の内にある秘められた暴力性を助長する性質を持っている。SNSでは、毎日のように誰かが集団リンチに遭っていると言っても過言ではない。これらのほとんどは殴る蹴るなどの暴行、所持品の破壊などの表面的ないじめとは違い、スマホの中で行われるため目立った証拠がない。しかも、それらのほとんどはニュースで報道されたり表面に出たりすることはなく、被害は匿名性によって隠蔽されてゆく。どこに住みどんな環境で生きどんな気持ちなのか、顔色が読めない以上本人の口から話されないとわからない。また、「死人に口なし」というように、仮に責任を追求されればアカウントを削除、つまりリセットすれば過去の失態とともに簡単に逃げることができる。実際の人生ではやり直しが効かないが、匿名であることから個々の言動にリアルタイムで責任が生じることもなく、間違えればリセット、という措置を取れば良いので、ますます悪意のある人は無責任な行動をするようになる。SNSは手軽に第nの人生を始められる場所なのである。
私はこれらの問題点を作品に表そうと考えた。インターネットの、手軽にアカウントを消すことができる状況を遺影で表し、その遺影の後ろにはゴミ箱が隠されるように置かれている。言葉の暴力などの軽犯罪が、まるで無かったことにするかのようにビリビリに破かれて捨てられている。初めにこの作品を見た人は、「SNSによる誹謗中傷などの被害によって命を絶たれた人」というふうに解釈した人が多いかもしれない。しかし、これはSNSの無責任さ・を表すものであり、匿名性が暴力を隠蔽する様子を表しているのである。
本作品は、匿名性が持つ暴力性について示唆し、普段のSNSの扱い方について意識を深めてもらうことを目的としたアート作品である。この作品を見た人に何かの刺激を与えることができていれば幸いである。


『厭離綺語欣求青春』

立体造形

長濱千拓

梅田ゼミ

青春は華々しく輝かしいイメージを持っている。しかし、まさに今の現実において⻘春時代を送る学⽣たちは、商品の PRや闇バイトなどさまざまな形で消費され、一部ではオーバードーズやパパ活、若年妊娠、自殺などの問題を抱えている。本作では、そのような⼀般に憧憬される⻘春の煌びやかなイメージと、理想とは乖離した現実的問題との対⽐を⽴体造形で表現した。
タイトルの「厭離綺語欣求青春」は、現実問題を排斥し、純潔かつ好都合な側面に傾倒して取り繕うように謳われた青春ではなく、飾り立てることの必要がないほど現実的問題が少ない理想通りの青春を送りたいという願いを表している。それに併せて、青春の纏うイメージに囚われて、青春を希望的な要素として消化する一方で、学生たちを取り囲む現実的問題があまり重要視されていないことへの危惧も込めている。また、このタイトルは仏教用語である「厭離穢土」(この世を穢れた地として嫌い離れること)と「欣求浄土」(極楽浄土に生まれ変わることを心から願うこと)を組みわせた「厭離穢土 欣求浄土」に由来する。


『自画像2』

コラージュ

セリザワモカ

梅田ゼミ

去年(2023年)の夏休みにゼミで「暴力」「青春」「創作」というテーマでスケッチブックいっぱいに絵を描いて、最終的に10個の作品のアイデアを考えるという宿題が出ました。その時にスケッチブックを埋めるためにひたすらデッサンをしたのが自分の身体についてでした。自分の目や手、全身や顔を観察してスケッチブックに収めました。その時、21年間自分の顔であるのにきちんと観察して見たことがないということに気が付きました。鏡に映る自分の姿をまじまじと見てみると自分の見たくない部分がどうしても目が入ってしまいます。私は自分の見たくない部分、いわゆる「コンプレックス」についてなるべく考えないように目を背けていました。そこでなぜコンプレックスが生まれてしまうのかということを考えました。コンプレックスができるのには2つの原因があるのではないのかと思いました。
まず一つとして年齢が上がるということです。年齢が上がることで自分の体の衰えや綻びなどが生まれてきてしまいます。実際に幼い頃はすぐに治っていたような傷も今は跡に残るようになってしまいます。またシワなど自然に生きていると抗えないことばかりです。
もう一つが周りの人と自分の顔を比べてしまうことです。最近の流行りの顔や化粧のタイプなどがすぐに変わってしまいます。コンプレックスを大々的に発信できる今日、コンプレックスではなかったものも簡単にコンプレックスになってしまいます。
この「コンプレックス」は自分だけのものだろうかという疑問が私の中で生まれました。他人の目を気にした上でのコンプレックスは私ではなく第三者から生まされたものではないのかというふうに考えました。そこで私が進級制作展に向けて深めていきたいと選択したテーマがコンプレックスによる「暴力」です。
「自画像2」では自分が自分だと認識しているものは自分が見たい部分しか見ることができていない自分なのかもしれない。自画像と称している自分は本当に私なのだろうか。それもまたそうでありたい理想の自分なのかもしれないので自分で最後まで完成させたキャンバスは自分の理想を詰め込んだものにしました。
では他人から見た私はどうなのでしょうか。私は壁にかけられたキャンバスに私のコンプレックスを作品とともに載せています。それが第三者から見た際にどのように見えているのかということに興味があります。コンプレックスは他人の介入によって生まれるという仮説が正しいのであれば自分のコンプレックスは自分が思うより他人が気にしていないのではないのかと思います。
そこで机に置かれたキャンバスには来場した方が私の理想の自画像を元に見て、私の「第一印象」を作ってもらおうと考えました。壁に飾られているキャンバスには理想の自分を表しているのですが、もう一つのキャンバスに来場者に手を加えてもらうことによって「自画像2」としてのセリザワモカが完成します。


『容疑者』

コンセプチュアルアート

宇佐美碧海

梅田ゼミ

警察の押収品陳列を見たことがあるだろうか。ブルーシートの上に事件に関連するものを並べるというものだ。近年ではメディアを通じてその並びが芸術の域と言われることがある。そこに注目して、梅田ゼミ共通テーマの青春と暴力を扱った作品を制作した。青春の部分は学校という閉鎖的空間を選択した。そこで起きる暴力、いじめというものは未成年保護法や世間によって実名報道や罪に問われることはない。しかし、立派な犯罪だと私は考えている。これら二つ、いじめと押収品陳列を掛け合わせたのが本作品である。また、机に置かれている漫画は雨瀬シオリ作「ここは今から倫理です。」一巻である。